創業者紹介

株式会社cinepos

鴻池 和彦

Kazuhiko Konoike

一度は諦めた創業にUターンで挑戦。
映像制作というクリエイティブな仕事が
地方でもできることを証明したいですね。

鴻池 和彦

Kazuhiko Konoike

下関市生まれ、47歳。大学卒業後、東京で映像制作の仕事に携わる。平成17年、実家の特定郵便局を継ぐために帰郷。郵便局長を務める傍ら映像制作も継続し、平成28年に映画制作会社cineposを設立。
 
株式会社cinepos
創業:2016年6月13日
住所:下関市南部町21-19 下関商工会館1F
HP:http://www.cinepos.com

大学卒業後、東京で映像制作の仕事に就いた鴻池和彦さん。映像の世界に足を踏み入れて11年、映像制作者として脂が乗ってきた頃、人生の転機が訪れました。それは、実家の特定郵便局を継ぐための帰郷です。独立を考えていた矢先のことでした。帰郷後、郵便局長として働く傍ら映像制作を続けていた鴻池さんは、平成28年6月に映像制作会社cineposを設立。一度は断念した夢に再び挑んだ理由と創業までの道のり、現在の状況などについてお聞きしました。

東京の映像制作会社ではどんなお仕事をされていたのですか?

大学を卒業後、特撮で知られる円谷プロダクションに入社し、すぐに営業部へ配属されました。版権管理やイベント事業の統括などをする、将来はプロデューサーになる人たちのための部署です。営業部にも関わらず、「とにかく制作の雰囲気を体感したい!」とちょくちょく現場に顔を出していましたね(笑)。円谷プロダクションで過ごした時間が、私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。その後、映像制作会社や映画配給会社等でも企画・制作・プロデュースに従事し、東京で約11年間、映像制作に携わりました。

映像の世界で実績を積んでいたにも関わらず、なぜ帰郷を決断されたのですか?

実家は祖父の代からの特定郵便局で、私は父に次ぐ三代目。「東京で好きな仕事をやっているのだから、何もこの田舎に戻って来なくてもいい」と父親は言ってくれたのですが、そうは言っても実家ですからね。他の人がやるよりはやっぱり息子の私の方がいいだろうと。任用試験に受かったこともあり、帰郷を決めました。当時、「鴻池さんが撮るなら出演したい!」「鴻池さんがプロデュースするなら出資するよ!」というお声もいただいていたので、そろそろ独立をしようと考えていたタイミングでもありました。

映像制作会社の創業を決めたきっかけは何だったのですか?

郵便局長となって10年が過ぎた頃、全国的に既存郵便局の店舗配置の見直しが進められることになり、勤めていた郵便局が統廃合の対象になりました。建物の耐用年数があと5年だったこともあり、必然的にこの先の仕事、生き方に向き合うことになりました。当時の私は45歳。残り5年郵便局長を務めたとしたら50歳。新しいことを始めるなら、頭が柔らかくて鋭敏な感覚が衰えてしまう前がベターだろうと…。それで、郵便局をここで思い切って廃止して、一度は諦めてしまった自分の映像制作会社を創りたいと思いました。もう一つのきっかけは、テレビ山口さんから声をかけていただいて、全国移住ナビという総務省のポータルサイトの下関市のPR動画を担当させていただいたことですね。旧知の俳優さんやスタッフを集めて制作した「ここに、いる 下関」という作品です。この作品制作で感じた確かな手応え、そしてテレビ山口さんとのご縁ができたことで「下関でもできるかもしれない!」と自信が持てました。

創業前の資金調達やその他の準備はどのようにされたのですか?

郵便局を退職したのが平成28年3月、創業したのが6月と、準備期間はわずか3ヵ月でした。以前から商工会議所の青年部に所属していた関係もあって、まずは下関商工会議所で何をすればいいのかを相談しました。提出書類の作成から補助金についてまでいろいろなことを教えていただきました。また、以前から親しくさせていただいている方が、創業支援施設で事業を始められていたので、その方にもアドバイスや相談にのっていただきました。5月1日に下関商工会館のインキュベーターを利用させていただくことが決まって、そこから急ピッチで準備を進めました。創業資金は全て自己資金です。

現在、実際の業務はどのようなものですか?

映画制作を主としながら、広告代理業、それに関連するデザインワークをしています。その他には、一昨年の11月からは、下関市細江町で全国単館系の映画を配給するシネマクロールの運営もしています。今後はコンテンツ制作にも着手する予定です。「cinepos発!」と誇れるものを創りたいですね。

創業時、不安なことなどはありましたか?

地方にはあまりないクリエイティブな業界なので、どうやって仕事をつくっていこうかな、という不安はありました。さてどうしようと思ったとき、「そうだ! 深夜番組を作ってみよう」と思い立ち、テレビ山口さんの放送枠を買って関門JAPANボクシングジムの30分番組を制作したりしました。そういった企画や制作をしたり、コンペに参加したりして、ようやく仕事になってきたのは創業してから約半年がたった12月くらいですね。創業して間もない頃は、いろんなことを試みて無理やり自分を忙しくしているという、まさに模索の期間でした。

その他、創業後に苦労されたことがあれば教えてください。

動画に対しての感覚や撮影のスキルについては、全く不安はありませんでした。郵便局長として働きながらも、ずっと映像制作は続けていたので。問題だったのは、協力スタッフとのコミュニケーションでした。映像制作の場合、プロジェクトごとにさまざまな人が集まって仕事を進めていきます。創業後すぐ、インターネットを通じて売り込みのあった方とご一緒させていただいことがあるのですが、その時はトラブル続きで本当に大変でした。キャリア的には申し分なかったんですけどね…。信頼関係の構築はとても大切で難しいことだと痛感しました。どんな業種にも言えることですが、人材選びは慎重に行うべきだと思います。

仕事はどのようにして獲得されているんですか?

山口県中小企業経営革新計画承認企業の説明会や企業紹介で知り合った企業の方、創業を応援してくださった方、地元でお世話になった方、東京でご縁のあった方など、本当に多くの人によって支えられています。実を言うと、幼少の頃は何とも言えない息苦しさを感じていて、あまり下関のことが好きではありませんでした…。高校を卒業したらすぐにこの町を出て行こうとずっと考えていて、実際にそうしましたから。ですが、地元に戻って郵便局長として働くうちに、地方の良さ、とりわけ下関の可能性を見出すことができました。私の下関でのネットワーク、コミュニティは郵便局長を11年務めたからこそ築けたものです。今思えば故郷で映像制作会社を始めるために必要な11年だったんだなと思います。

創業して良かったと思うことは何ですか?

やはり、自分のやりたかった映像制作ができるということですね。もちろん、郵便局長もとてもやりがいのある仕事でした。ただ、ものづくりをしたいという気持ちはずっとあって…。なので、やっぱり今が一番充実していますね。もうひとつ良かったことは、無駄なストレスがなくなったということでしょうか。大きい組織になればなるほど人間関係が複雑になり、どうしてもストレスを抱えがちになります。勇気を持って一歩踏み出したことで、そのストレスから解放されました。今は誰にも責められないし、誰も責めない。自己責任でできるところが私には大きな魅力です。もちろん、自己責任だからこその不安もあります。でもそれは、仕事の方法を改善したり、自分の人間性を高めたりすることでクリアできるのではないかと思います。

今後の目標を教えてください。

「下関でクリエイティブな仕事を立ち上げた」ことに大きな意味があると考えています。こうした企業が地方で順応して経営できているということが、これまではそんなになかったことじゃないのかなと。今はインターネットの普及により、地方であっても都会と交流でき、同じようなテンション、テンポで仕事をすることができます。「下関でもクリエイティブな仕事がやっていけるんだ」ということを証明して、地元の若い人たちが、「cineposで働きたい!」って思ってもらえる会社にしていきたいですね。事業としてはコンテンツビジネスにより一層注力し、クオリティの高いものを創っていきたいです。

現在創業をお考えの方にアドバイスをお願いします。

思いつき程度で始めないことでしょうか…。最初は何とかなるかもしれませんが、最終的にはこれまで蓄積してきた知識や経験がモノを言うんじゃないかと思います。それプラス、勇気、度胸ですね。やっぱり、やってみないとわからないですから。自分が今まで培ってきたことを自信に、ぜひ一歩踏み出してみてください。